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罪孽深重:貧困型出軌與富裕型出軌

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映畫版「晝顔」の結末があまりに殘酷なものであったことで、私の周囲の斎藤工ファンがメソメソしている。しかしセンセーショナルな不倫ドラマは、やはりあのようにしか終わり得なかったのだろうし、私的には不倫がよくも悪くも人の関心を惹きつけ、多くの場合は拒絶反応を引き起こすということを再認識させられた。

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《晝顏》電影版的結局實在太殘酷了,使得我身邊的齋藤工粉絲們個個泣不成聲。然而,這部轟動的出軌劇,恐怕也只能這麼收場吧。對我來說,也再次認識到了一件事,那就是出軌無論好壞,都會備受矚目,而且在大多數情況下,大家的內心還是拒絕的。

不倫は希望を奪う

出軌剝奪了希望

ここ2年ほどの過剰とも見える芸能人の不倫報道も、「晝顔」の悲劇的なラストも、単に近年よく見られるような行き過ぎた道徳心の引き起こした結果であると一蹴してしまうのは簡単だ。ただ私がそれほどシニカルになりきれないのは、もっと根本的で本能的な拒否感を感じるからだ。不倫が忌み嫌われるのは、ものすごく愛し合っているにせよそれなりに惰性の関係であるにしろ、夫婦関係の片割れである殘された妻や夫から、世界で一人だけしか救えない狀況になった時、必ずその一人には自分を選ぶであろうという希望を奪うからに他ならない。

近兩年來演藝圈漫天飛舞的出軌醜聞也好,或是《晝顏》悲劇性的結局也罷,將“出軌”的原因歸咎於近年人們漸漸喪失的道德感,比較容易想得通。然而,令我覺得諷刺的是人們對於出軌其實有着更加原始的、本能的抗拒。出軌使人厭惡的是,夫妻兩人即使愛到海沽石爛,婚姻關係也會產生惰性,而當夫妻中的一方出軌,剩下的一方就會覺得全世界只有對方(妻子或丈夫)能拯救他時,對方一定會選擇自己的希望被奪走了(可能會選擇第三者)。

少なくとも彼だけは自分を救ってくれるだろう、という信じてある希望を失うことは、人間にとって耐え難く心細いものである。「晝顔」は映畫となってより一層、妻の不安と絶望を顕著に描いたが、私自身、獨身のまま昨年母を亡くして今まで以上に強くそう感じている。

至少,他還是能拯救我的——這一深信的想法一旦破滅,只能陷入絕望的深淵。《晝顏》的電影版將妻子那種不安與絕望描繪得更爲入木三分,單身的我在去年母親亡故之後,對一個人的絕望,這樣的感受更爲深刻了。

もちろん、自分の味方になってくれる人を増やし、守ってくれる人を増やすというのは誰にとっても人生の一側面であり、幸運な星の下に生まれ、またそこに甘んじずに努力すれば「社長のためになら自分が犠牲になってもいい」という部下を多く持つかもしれないし、「何よりも優先すべきはタクヤ」というファンを増やすかもしれないが、多くの凡人達にとってそれは結婚して生涯ともに歩もうと誓った相手たった一人の票しか期待できない。また、運が悪ければそれすらも手に入らないわけである。

當然無論是誰,都希望更多的人成爲自己的朋友,更多的人來守護自己。如果含着金湯匙出生,或是踏實地付出努力而擁有了很多想着“爲了社長,犧牲我自己也可以”的下屬,亦或是擁有衆多想着“凡事以takuya爲先”的粉絲也好。但這些對於大多數平凡人來說都遙不可及,只能期待結婚之後和自己攜手白頭到老的那一個人可以拯救自己、以自己爲先,若運氣差些,連這一人恐怕也無處尋覓吧。

なぜ「銀座ホステス裁判」は、オヤジ臭い判決になったのか

爲何“銀座陪酒女案”的判決是腐朽的判決

物議を醸したことで覚えている方もいるだろうが、2014年に判決が出た銀座ホステス枕営業裁判というものがある。裁判を起こしたのは女性で、夫と銀座のクラブのママが長年に渡って深い仲にあったことで精神的な苦痛を強いられたとしてクラブのママに慰謝料を求めたものだ。裁判官は不貞行為の事実の追及に重きを置かず、クラブホステスにとって「枕営業」というのは営業行為であるとしてその訴えを退けた。

不少人還記得2014年那起議論紛紛的銀座陪酒女被告一案吧。提起訴訟的是一位女性,她的丈夫與銀座夜總會的老闆娘長期保持密切關係,使得她在精神上痛苦不堪,於是提起訴訟,要求夜總會的老闆娘賠償其精神損失費。法官並沒有將重點放在追究婚外情的不忠行爲上,而是認爲對於夜總會陪酒女來說,她的行爲只是工作的一部分,判了這位女性敗訴。

確かに広義の不倫、つまり婚姻関係がある人がパートナー以外の人と肉體的あるいは精神的に強いつながりを持つ行為には二種類あるという見方はできる。「純愛型」の不倫と「愛人型」の不倫と言ってもいいし、「感情型」の不倫と「理性型」の不倫と言ってもいい。つまり、それこそ「晝顔」の上戸彩と斎藤工のようにお互いどうしようもなく惹かれあって、結婚している自分の事情など考えられないほど愛し合ってしまってチョメチョメるというのと、クラブホステスに入れ込んで通いつめ、チョメチョメまでありつくというのとではだいぶ印象が違う。

的確,出軌從廣義上來說可分爲兩種,即指在婚姻關係內的人,在伴侶之外,發生肉體出軌或精神出軌這兩種行爲。稱之爲“純愛型”出軌和“情婦型”出軌,也或“感性型”出軌和“理性型”出軌也可以。換言之,就像《晝顏》裏的上戶彩和齋藤工那種互相吸引、相愛到已忘了自己已婚的事實,以及結了婚還去逛夜總會和陪酒小姐打情罵俏,這兩種情況給人的印象是截然不同的。

おそらく、古き良き時代の男、正しく言えば前近代的な思想の男は、「イエ」に対する責任愛と、遊女や芸妓を愛でる愛とは別物であり、妻と愛人は別物であるという認識だったからこそ、かの銀座ホステス裁判は革新的でありながらどこか懐古的な、オヤジ臭い判決という印象を帯びたのであろう。

恐怕,就是那些古時候的男人,正確來說是擁有近代之前思想的男人,對於“家”的責任之愛和對於藝伎、歡場上女子的愛區別以待,對於妻子和情人也分得很清楚這一認知,才導致銀座陪酒女一案雖然顯得具有革命性,最終也只得到腐朽的判決罷了。

「貧困型不倫」と「富裕型不倫」とは何か?

“貧困型出軌”和“富裕型出軌”究竟是什麼意思?

ただ、現在の不倫を見ると「純愛型」「愛人型」などとうまく峻別するのは難しい。交際クラブに登録して女の子に幾らかのお小遣いをあげて食事やセックスに勵む既婚男性は多いが、彼らはかつての妾の面倒を見るほどの気概も経済力もなく、また妻への愛と交際クラブの女の子への愛をうまく使い分けているようにも見えない。

不過如今,要嚴格區分“純愛型”出軌和“情婦型”出軌是很難的。大多已婚男人們不過是給那些陪酒女郎一點零花錢,吃吃飯、沉迷於溫柔鄉罷了,他們既沒有古代人照顧妾侍的氣魄與經濟能力,也無法把對妻子的愛和對陪酒女郎的愛劃清界限的能力。

結局、不倫の種類を決めているのは、既婚者ではない側の心持ちなのである。既婚男性と獨身女性であれば、女性側が何目的であるか、というのがそれを決定しているに過ぎず、男性の側に真実か虛構か、純愛か遊びかの決定権はない。銀座ホステスと「晝顔」の上戸彩では女性側の心持ちはまるで違うが、戀い焦がれていた男性側の感情にそれほどの大差があるとは思えないのだ。先の裁判の判決が銀座側からすれば理にかなったものであり、妻側からすれば全く要領を得ないものであるのもそのせいだ。

最終能決定出軌類型的,是非已婚那一方的心態。如果是已婚男性和單身女性的情況,女性一方的目的是什麼具有決定性,男性一方的感情是真實也好虛幻也罷,純愛也好逢場作戲也罷,是不具備決定權的。銀座陪酒女和《晝顏》中上戶彩的心境是完全不同的,但男方焦躁的愛戀之心卻如出一轍。之前法院的判決,從銀座方面來看,還算有道理,但從妻子的立場來看,簡直不可理喻。

既婚男性と肉體的あるいは精神的に深い関係にならんとする女性の方は簡単に分けてしまえば「貧困型」と「富裕型」に分類することができる。別に貧乏臭い格好をしているかどうかとか、収入がどれだけあるかに関わらず男性の金銭的な援助を目的とした関係を貧困型とした場合、枕営業をするキャバ嬢も愛人バンクに登録して月のお手當てをもらう愛人たちも、風俗嬢も大まかにはこちらに入る。別に、いわゆる玄人でなくとも、お小遣いや自分では買えないようなプレゼント、自分では入れないような店やホテルのスイートに目が眩んで港區あたりでおじさんたちを弄ぶ女子たちもまたそうだ。

從和已婚男人有肉體關係或深層次的精神關係的女性的角度,就能簡單劃分出“貧困型”出軌和“富裕型”出軌兩類。這無關於穿得寒酸或者收入少,而是將以男性的金錢援助爲目的的關係定義爲貧困型,那些有性關係的陪酒女、每月拿錢的情婦、風俗娘等都屬於這個類別。還有就算是普通人,以零花錢、或是買不起的禮物、消費不起的店或酒店昂貴的甜品爲目的,在港區地帶糾纏於大叔身邊的女子們也歸入此類。

「晝顔」の上戸彩も、ベッキーも「富裕型不倫」

《晝顏》中的上戶彩也好,Becky也罷,都屬於“富裕型出軌”

対して、たまたま戀に落ちた相手が既婚者だったという女性、あるいは、特にお小遣いやプレゼント目的ではないが、スリルや切なさを求めて不倫をする女性たちも存在する。「晝顔」の上戸彩もそうだし、ベッキーだっておそらく相手のバンドマンからの金銭的援助など期待していなかったわけだから、こちらに入るであろう。それを「富裕型」とあえて私が呼ぶのは、既婚男性とうっかり戀に落ちがちな女性や不倫好きな女性というのは、圧倒的に社會的に自立した、いわばキャリアウーマンが多いからだ。

相對的,那些偶然陷入戀情,但對方是已婚者的女性,也就是說不以零花錢、禮物爲目的,追求刺激、苦戀的出軌女性也是有的。《晝顏》裏的上戶彩既是如此,Becky也不會對樂隊那位在金錢方面有任何期待吧,她們都屬於富裕型出軌。之所以稱爲“富裕型”,是因爲那些和已婚男人糊里糊塗就陷入戀愛或是喜歡出軌的女性,具有一定的社會地位且非常獨立,也就是職業女性佔多數。

おそらく、仕事で立身出世する気がない女性は相対的に結婚願望が強く、既婚男性などはそもそも眼中にない場合が多い。逆に言えば別に本人としては既婚男性を選んでいるつもりがなくとも何故か既婚者と戀に落ちがち、という女性は、ある意味では純粋で、結婚して生活を安定させようだとか、あわよくば主婦になりたいといった計算なく男性を眼差している女である。そうした態度は総じて自分で生活を安定させることができる、人生に餘裕がある人にしか成し得ないものであると言える。當然、自分のことをハナから圏外指定してくる女と、そういうことはあまり考えず分け隔てなく接してくる女であれば、男性が後者と戀に落ちる可能性も高い。

恐怕那些沒能在事業上出人頭地的女性,相對來說結婚的意願比較強烈,根本就沒把已婚男人當作目標。反過來說,那些並不是故意選擇已婚男人,卻容易陷入與已婚男人相戀的女性,從某種意義上來說,她們是純粹只選自己喜歡的男人,與那些想要結婚後過上安定生活,成爲主婦的女性不同。這樣的態度總的來說,是能夠讓自己的生活安定下來的,也可以說是人生從容不迫的人才能達成的。所以,如果是目標明確的女性,和不怎麼考慮這些的女性,那男性和後者相愛的可能性也會較高。

不倫に類型はあっても、男に決定権はない

就算出軌分類型,決定權也不在男人手裏

何も、女性の職業や収入が「貧困型」と「富裕型」を決定づけるわけではなく、そこではあくまで傾向を読み取ることしかできない。それに「貧困型」として始まった不倫も純愛の色を帯びてくることだってある。ドラマ化もされた有吉佐和子「不信のとき」では、主人公の既婚男性はホステスと戀に落ちるが、そこに描かれるのはどちらかと言えば純愛型の愛憎劇である。ただ、それが分類の垣根を超えてくるかこないかというのも所詮、女性の方が思いの外本気で好きになってしまったか、という女側の事情によるのであって、男に決定権はない。

然而,女方的職業、收入不是決定出軌爲“貧困型”還是“富裕型”的標準,不過是以此來知曉大概狀況。“貧困型”開始的出軌,也有帶有純愛色彩的。電視劇版有吉佐和子的《不忠實的時刻》,主人公已婚男人和陪酒女相愛這一段描寫,說起來也算是純愛型的情感劇。但是不是越過了分類的界限,就看女方是不是真的愛上了對方,男人這邊是沒決定權的。

男に決定権がないというのはつまり、男の罪は等しく重いということであるし、妻の不快感や苦しみも大小の差がないということでもある。ただ、それは妻の不快感や苦しみが「一種類しかない」ということにはならない。

男人沒決定權,換言之,男人的罪孽是一樣重的,妻子的痛苦與悲傷也沒什麼大的差別。但,妻子的痛苦與悲傷卻“不止一種”。

不倫のタイプによって罪の軽重があるという幻想

出軌類型不同,罪孽也跟着分出輕重來這一幻想

実は妻の側から見ると、二種類の不倫に対する憎むべきポイントというのは微妙に違う。純愛型の不倫は、「晝顔」の斎藤工がそうしようとしたように、妻の立場が揺らぐ可能性を孕む。つまり不倫相手は妻にとって脅威となるわけで、奪われる不安や自分の居場所がなくなる焦りによって苦しむのは當然だ。冒頭で述べたように、不倫の一般的な意味での拒絶反応も、この奪うものに対する恐れと嫌悪感からきているのは間違いない。

實際上,從妻子的立場上來看,她們對於這兩類出軌的憎恨點還有着微妙的差別。純愛型的出軌,就如同《晝顏》中的齋藤工那樣,可能不斷動搖着妻子的地位。也就是說,出軌對象對妻子構成了威脅,被掠奪的不安、失去自己的地位,焦慮、苦惱自是理所當然的。就像文章開頭所說的那樣,對於出軌的常識性的拒絕,也一定會對這種掠奪產生恐懼與厭惡。

対して、「貧困型」の女子たちが妻の脅威となるかというとそれはあまり考えられない。そもそも妻の座を狙っていない場合が多いし、ただの金目當てや玄人系の場合、本命の戀人は別にちゃんといるという女の子だっている。女にその気がなければ流石に男性が妻との関係を斷ち切ってまで乗り換えるということは考えにくい。

相對的,“貧困型”出軌的女人們根本不會對妻子們造成威脅。因爲她們原本就沒想上位,不過是想要錢,專於此道的女子恐怕還有真命天子在身邊。如果女方沒這個意思,那就很難想象男人真的會和自己的妻子分手。

だからといって罪が軽いということにならないのは、何も人の傷というのは奪われる恐怖や居場所を失う絶望といった「晝顔」の妻的なものによってのみつけられるものではなく、別の形の、やはり堪え難いつけられ方というのがあるからだ。それは言わば自尊心が傷つくという苦しみ、バカにされていることの苛立ちである。自分が(少なくとも形上は)愛している旦那を、金づるとあざ笑って利用し、利用しておいて陰で「キモいオヤジ」だと蔑む女がいるとき、そしてそんなことにも気づかずつかのまの戀にうつつを抜かす自分の夫がいるとき、女性のプライドはとても揺さぶられる。それは自分自身がバカにされ見くびられているのと同等の、あるいはそれ以上の苦しみなのかもしれない。

即便如此,並不能減輕罪孽。雖然不是像《晝顏》裏的妻子那樣,有着被人掠奪的恐懼和失去身處之地的絕望,也會以另一種方式處於難以忍受的境地。妻子的自尊心受到重創,且有一種被人看笑話的焦慮感。自己(至少表面上)深愛的丈夫,被人當凱子嘲笑利用,在背後還被女人蔑視成“噁心的老頭”,連這些都察覺不到還一頭扎進愛情裏的自己的丈夫,實在是讓女性的自尊心無處安放。這和自己被當做傻子是一樣的,甚至可能更痛苦。

おそらく妻自身もそれほどはっきりと區別して憎んでいるような類のものではないのかもしれないが、例えば「別にお前と別れるわけではない」だとか「ただの遊びのつもりだった」という言い訳が、あるいは「所詮、浮気相手だよ、あなたの座は揺らがないよ」という慰めが時に見當違いな響きしか持たないのは、傷のつき方にも形の違いがあるからだ。銀座ホステスが何も妻の座を奪おうとも彼らの関係を壊そうとも思っていなかったと考えたのであろう判決は、ホステス側から見て正しいものであっても、精神的苦痛を感じた妻の訴えと夫の罪をなきものとするに足る論理ではない。そう考えると「風俗は別物だよ」なんて言う男性の論理は、人の傷がどのようにしてできるかについて何の自覚もないという意味で、大変空虛なものに聞こえる。

恐怕妻子們自己也無法清楚區分憎恨的類型,例如“又不是要跟你分手”、“只是玩玩而已”等藉口,聽起來意思就是“出軌對象不會動搖你的地位啦”,這種安慰簡直是在傷口上撒鹽。銀座陪酒女案因沒想要奪走妻子的位子,也沒想破壞夫妻倆的關係的判決,從陪酒女方來看,貌似沒什麼問題,但正經受着精神苦難的妻子提起了訴訟,那麼丈夫絕對是有罪的。所以,那些說着“逢場作戲另當別論”的男性理論是站不住腳的,是簡直不把傷害人當回事的無稽之談。

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